カツアゲはある意味「コミュニケーション」である。
わたしたちがカツアゲに対して抱く印象はどのようなものだろうか。
カツアゲとは強き者が弱き者から物をぶんどることである。
弱き者が立場的に下であることに目を光らせ、強き者が暴力で脅す。
言葉の暴力かもしれないし、リアルな暴力かもしれない。
当然、良いことであるはずがない。
なぜなら強き者が弱き者を脅す時、完全に弱き者に強制的に行動させているからだ。
強き者はカツアゲ後、その一戦での収入をかっさらって自分のものとするだけだ。
しかし、弱き者にとってはキタナイ言葉を浴びせられたり胸ぐらを掴まれたり金銭をふんだくられたりされるばかりで、何一つ良いことはない。


だが、強き者からのののしりや脅しのかわりに、弱き者が与えるものもある。
一方的に強き者が圧倒するだけではない。
カツアゲでいう金銭のことである。
「交換」するものがないとき、コミュニケーションと言うことはできない。
ある場、ある時でコミュニケーションが成り立つのは「交換」の要素が必須なのである。

たとえば、飲食店の店員を相手にするとき。
注文したものを店員が運んできて
「熱いのでご注意くださいー」と
言われて、こちらが
(あ・・・)
そうなのか、と思っていると店員が去ってそのうち無言で食べ始めることはよくある。
こういう状況なんかは、コミュニケーションになっていないのじゃないか。
この例ではコミュニケーションをとらなくて良いと考えてる人もいるから、完璧に当てはまるわけではないのだけど、
状況は「交換」というよりは、片方が一方的に言い通した形になっている。

弱き者はこの「交換」ということを行っているだろうか。
カツアゲされるということが何かの「交換」ということになるだろうか。
その通り、カツアゲにおいても「交換」は成り立つ。

まさに弱き者がわたす「金銭」はコミュニケーションを成り立たせている。
「金銭」は「交換」が成り立つ条件になりはしないだろうか。
もし「金銭」をわたすことがなかったら、実は弱き者は単純な物でもいいことになる。
強き者が脅して、暴力をしてもその場に何の変化もないとしたら、
弱き者は意思を持った人間としては認められないほどに存在意義がなくなってしまう。
なんでも代用がきく弱き者と「コミュニケーション」が不可能なわけはここにある。

しかし、金銭をわたすということが加わるだけで「コミュニケーション」は成り立つことにはならないだろうか。
ひどく一方的なカツアゲということが「コミュニケーション」にもなりうるということである。






ところで、こちらの呼びかけに何の反応もないということが「コミュニケーション」のなかで一番悲しいことである。
カツアゲの場合はまだ金銭の交換ということで、不可解な部分がない。
しかし、わたしはどうであるか。
Webで応募したバイト先からの連絡が二週間たってもまだ来ないのである。